あやまるということ
2010年 02月 24日
間違えてしまったことを他人に対して謝罪するということが、「あやまち」を「あやまる」という、同じ言葉の連続で表現する妙な語法が日本語にはあります。これには、日本人特有の物の考え方が表れているのでしょうか。そういう意味合いに言及したのは古在由重でした。
以前から冤罪であると言われてきた郵便不正事件(自称障害者団体「凛の会」を郵便割引制度の適用団体と認めた偽の証明書が発行された事件)の公判で、当時の担当係長上村勉被告が証人に立ち、担当課長だった村木厚子元局長が上村元係長に不正発行を指示したとする検察側主張を否定し、「自分の判断でつくった」と述べました。
村木被告に偽の証明書を発行するように指示したとされる元上司も、供述を翻して、あれは検察の壮大なフィクションだと発言したことから、いよいよこの事件は冤罪という結果は免れないことになりそうです。
足利事件が冤罪であることがはっきりし、検察は謝罪しました。小沢一郎の政治資金収支報告書記載漏れ事件にしても、検察側の描いたストーリーがもろくも崩れ去り、郵便不正事件にしても、検察の作った筋書きが、実はフィクションに過ぎなかったことが明らかになろうとしています。
検察にはなんと、物語を創作する才能に富む人材がひしめき合っているようではありませんか。数々の証拠が集まって話の筋が浮かび上がってくるというのではなく、まず話の筋をつくってから、それを裏付ける証拠を掻き集め、はては逮捕して、手練手管を弄して事実でない供述を吐かせる。そのテクニックは、手の内を知り尽くした元検事であっても嘘の供述をしてしまうほどの恐ろしいもののようです。その創作を作り上げた検事の頭は、出世という妄想に取り憑かれているにちがいありません。
日本社会の道徳律では、謝罪をすれば許されるという風土があります。
これは日本だけに通用するもので、外国ではこのような道徳は通用しません。本当の原因は別のところにある場合でも、お騒がせしたとか、迷惑をかけたということで謝罪すると、すべての罪を背負わされて有罪にされてしまいます。謝罪をすれば許されるという風土は、本来の議論を封じ込めてしまい、その因って来たる原因の究明が曖昧にされてしまう諸悪の根源でもあるのです。謝罪するだけで水に流すことがあってはなりません。このような安易な道徳主義は百害あるばかりです。
問題は、謝罪するかしないかということではありません。検察がでっち上げた冤罪の場合、どうして冤罪を発生させてしまったのか、その検証がはたして検察の内部や、あるいは検察庁の中枢部、さらに法務大臣のレベルまでさかのぼってなされているのかどうかということが、さっぱり伝わってきません。検察という官僚は、偽の情報を流して風を吹かせることはあっても、検察内部の情報は決して漏らさないものであるかのようです。
冤罪というのは検察の大失態であることは自明です。大失態をしでかした者は、その原因を検証したうえで相応の処分がなされなければなりません。馘にしないまでも、捜査を指揮した者の上司を含めて、降格、減給、左遷など、目に見える形で我々に示してもらわないと、またまた冤罪は作られていくことでしょう。そう思うのは私だけでしょうか。