雄勝へ
2012年 10月 18日
その日は私の姉と家人の3人で十和田湖に近い大湯温泉に宿泊し、翌日は東北道から三陸道に入って姉の家のある石巻市雄勝町に向かいました。
北上川南側の堤防の道路を海の方向に走り、気仙沼方面に抜ける仮設の新北上大橋たもとの交差点にさしかかって雄勝町方向に右折するとき、あの大川小学校がちらりと見えました。
雄勝町に入り、廃墟になった雄勝小学校を左に見、まだ残骸がそのままになっている雄勝硯伝統産業会館を右に見ながら雑草が生い茂っている更地の町内を抜け、半島の山道を走って、やっと熊沢地区の姉の家に着きました。あの大震災後に来るのは、初めてになります。
少し休憩した後、来た道を戻り、仙台市の自宅に向かう途中、家人が大川小学校に寄りたいと言い出しました。私はそのつもりでカメラを用意していました。
もう夕刻で暗くなりつつあり、雨も少し降り出しています。新北上大橋の交差点を右折するとすぐに、あの70人以上の児童たちが犠牲になった大川小学校がありました。
ここは朝から暗くなるまで、訪れる人が絶えないようです。小学校の裏手には山林がありますので、「ここに登っていれば」、というのは、誰しもが思うことでした。下草刈りもしていない急な斜面は大人でも難儀しそうで、小学生には厳しかったのかもしれませんが、そんな大津波が来るとは思いもしなかったのでしょう。私が検証することではありませんが、この小学校を建設した当初から、津波のことなど、考えたこともなかったのだろうと思います。
少し前に、全国からたくさんの僧侶がここに参集して、法要が営まれました。13回忌のお経をあげてもらった高校の後輩の住職も、ときどき被災地に行ってボランティア活動をしているそうです。
この学校の前と後ろを、復旧工事のダンプカーがひっきりなしに土埃を上げて行き交っています。
小学校から振り返った交差点の景色です。
この信号機のある小高い場所に児童たちを移動させているうちに、大津波が襲ったのでした。