へそ曲がりと偏屈の対話 中村勘三郎を悼む

臍曲親父: 歌舞伎の中村勘三郎が亡くなりました。私は彼の歌舞伎を直接観たことはありませんが、歌舞伎の枠を超えて挑戦している姿勢を高く評価していただけに、非常に残念でなりません。
偏屈老人: その昔、彼が中村勘九郎を襲名して初舞台を踏んだときの挨拶をテレビで観たが、先代の勘三郎の横で挨拶する姿が実にほほえましく、可愛かったのを覚えておる。先代が歳をとってからもうけた息子だったから、悦びも大きかったのだ。それがどうだ。まだ還暦も迎えないうちに急逝してしまった。
臍曲親父: 人間の命のはかなさを感じます。私はたまたまこの歳まで生きながらえてきましたが、私はこれまでいたずらに馬齢を重ねてきたという偶然にめぐまれ、彼ははからずも偶然にはかなくなった、ということなのでしょうか。
偏屈老人: 仏教では、人にはその人の一生涯の食分(じきぶん)があり、命分(みょうぶん)があるといわれている。これは、人間の努力や心がけによってもちがってくるが、それだけではどうにもならないところがある。限度というものがあるというのだ。18代目の命分は、今で尽きてしまったということなのだ。頑張りすぎた、ということなのかもしれぬ。
臍曲親父: 食分とは、どういうことなのでしょう。
偏屈老人: 生涯に食べる食料の量の限度をいうのだ。仏道修行をするうえにおいて、食べもののことを心配してはいけないという。食分はきまっておるから、なければなくとも、何とかなるものだというのだ。美食に明け暮れていると命を縮めるというのは、このあたりの消息をいったものか。
昔一人の僧があって、死んで冥界に行った。閻魔大王いわく、此人命分未だ尽きず、(娑婆に)帰すべし、と。冥官いわく、命分ありといえども、食分すでに尽きぬ、と。大王のいわく、荷葉(蓮の葉)を食せしむべし、と。その僧が蘇ってのち、人間の食べものを食べることができず、蓮の葉だけを食べて残りの寿命を保ったというのだ。
人間は自由な存在ではあるが、また有限な存在でもある。文明が発達して人間が傲慢になってくると、人間の有限性が忘れられて、無限の欲望を追求するようになった。ギリシャでもインドでも、中国であっても、昔はその自由と有限の意識のバランスがとれておったが、どこでまちがってしまったのだろうか。
臍曲親父: 人間存在の有限性が強く意識されたのは、あの東日本大震災があってからのことでした。欲望を無制限に発展させることが価値あることとされてきたのが、大きな壁にぶち当たったのでした。欲望の無制限な発展と人間の幸福は別物であるということに気づいた人は、幸いでした。
偏屈老人: 思い出したが、その昔、大阪の松竹座で、先代勘三郎の歌舞伎を観たことがあった。たしか「身替座禅」という演目だった。最前列に近い席だったので、先代の顔を間近で見ることができたのだ。それは、京都のお殿様が、恐い奥方をだまして愛人に会いにいくのだが、それがばれてしまうという話だ。これは元は狂言だったのだが、それを歌舞伎にしたのだ。勘三郎演ずるお殿様は愛人から会いたいという手紙を貰ったのだが、読み終わって会おうと決断したその時のニカッとした、何ともいえないスケベ顔を、未だに覚えている。そのとき、実にこれぞ名優と、感じ入ったものだ。18代目も、もう少し歳をとってこれを演じたら、さぞかし先代に負けない顔をしてみせてくれたであろう。残念でならぬ。
名前
URL
削除用パスワード
by 130atm | 2012-12-08 16:00 | 独断偏見録 | Comments(0)

民草のつぶやき


by 一拙
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31