蛙の比喩 二題

「茹で蛙」

私がはじめて「茹で蛙」の喩え話に接したのは、もう20年近く前、債権保全のセミナーに参加したときでした。
経営が傾いている取引先の信用状態を観察しているとき、少しずつ悪化してきているのに、わずかな変化だからといって楽観していると、ある日突然倒産してしまうことがある。その進行が緩やかなので、つい油断してしまうということの喩えに、この話が出されたのでした。
会社勤め時代の私はビジネス書を読むのが大嫌いでしたから、こんなことも知りませんでした。リタイアしてからドラッカーなどに興味をもったのですから、皮肉なものです。

このような事態の緩やかな変化を「茹でガエル症候群」、あるいは「茹でガエルの法則」といっているようです。
「2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。すると、前者は直ちに飛び跳ね脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できずに死亡する」
これは債権保全ばかりでなく、広くビジネス環境の変化に即応することの重要性をいっていて、ビジネス書やセミナーでよく取り上げられる喩え話です。しかしこれは作り話で、実際に水からゆっくり茹でてみれば、熱くなる前にカエルは逃げ出してしまうそうです。

P・F・ドラッカーは、すぐれた経営者は僅かな兆候の意味するところを見逃さないと言っていますし、喩え話の好きな『淮南子』は、孔子、子産を「近きを以て遠きを諭(さと)り、小を以て大を知るなり」といい、「聖人は外に従(よ)りて内を知り、見(あらわ)れたるを以て隠れたるを知る」と、同じことをいっています。

事はビジネス環境にかぎりません。
福島第一原発の始末に負えない惨状をわれわれが熱湯と感じて飛出すか、それとも、なにやら水が少し温かくなってきたがまだ大丈夫、エネルギーを使い放題の心地よい日頃の生活から抜け出すのはゴメンと、汚染水のなかで泳ぎ続けるのかという記事は、あるブログで見つけたことでした。
熱湯に放り込まれたと考える人は、原発の再稼働に反対する人です。まだ温い水だから、そんなに大騒ぎすることはないと考える人は、原発をまだ維持していこうという人をいうのでしょう。
「茹でガエルの法則」からすれば、日本の原発行政の行く末はどうなるでしょうか。気がついたときにはもう手遅れ、あるいは破滅的な現実に直面してしまうことになります。小を見て大を見ず、外を見て内を見ないということの結果は明白です。
原発事故にかぎらず、この喩え話を覚えておけば、日々のニュースや身のまわりのことでも、小さなことから想像して、大事に至る前に何事かを為すことができそうな気がしてきます。「茹でガエル」になる前に働かせなくてはならないのは、やはり「想像力」だということではないでしょうか。

「三匹の蛙」

「三匹の蛙」の話に接したのは、加藤周一の『夕陽妄語』でした。
ヒトラー政府の下で、いわゆる「ウラニウム組」に参加した物理学者たちは原子炉をつくる研究にたずさわっていました。そのためにドイツ降伏後に英国に軟禁されたカルル・フリードリッヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは戦後、核兵器廃すべし、それができなければ、戦争を廃すべしと、科学者の責任に言及したのでした。
その彼が、「あなたは悲観論者か、それとも楽観論者か」という問いに、三匹の蛙の比喩を以て答えたのです。
「三匹の蛙が牛乳の容器の中に落ちた。悲観主義の蛙は、何をしてもどうせだめだからと考えて、何もせずに溺れ死んだ。楽観主義の蛙は、何もしなくても結局うまくゆくだろうと考えて、何もせずに溺れ死んだ。現実主義の蛙は、蛙にできることはもがくことだけだと考え、もがいているうちに、足下にバターができたので、バターをよじ登り、一跳びして容器の外へ逃げた。」

「三匹の蛙」の話はヴァイツゼッカーの独創ではなく、これは「イソップ物語」にあるというのは、後で知ったことでした。
この喩え話も、ビジネス環境をどう捉え、どう乗り切っていくかということの、格好の喩え話にされているようです。しかし、このこともビジネスに限る話ではありません。蛙にできることがもがくことだけならば、人間にできることは何なのでしょうか。


蛙の喩え話から想い出されたのは、ナチスが実権を握ってドイツを全体主義国家にした過程のことでした。
ナチスはドイツの政治体制の外側から発生しましたが、最初から熱狂的にドイツ国民に支持されたのではありませんでした。ナチスが政権を掌握してから、その変革は少しずつ着手されていったのです。
最初は社会主義者が狙われ、自由主義者が投獄されるようになり、キリスト教会に及びました。早くから気づいた人は警告を発していましたが、「脅かし屋」といわれ、相手にされませんでした。そのうち誰も自由にものを言うことができなくなり、気がついたときにはもう手遅れで、あの恐ろしいナチス・ドイツになっていたのです。
戦後のドイツは、政治家や知識人を含め、その過去への深刻な総括から出発しました。「一億総懺悔」と言って戦争責任の所在を曖昧にし、戦争責任者が総理大臣になるような国とちがって、その戦争責任の追及は徹底をきわめました。そういう過去の歴史を重い教訓にしていたドイツは、福島の原発事故を受けて、ただちに原発を廃止する決定をしたのです。

政権を奪還した自民党の安部総理は、自民党の中でも極右とされる人物です。原発を推進していくばかりでなく、集団的自衛権の行使をめざし、海外派兵ができるように平和憲法を改憲しようとしています。尖閣諸島問題やアルジェリアの人質事件は、彼にとっては「奇貨」なのです。
この夏の参議院選挙のあとから、あまり騒がれないように、少しずつ、自分の考える国家に近づけていくための政策を立案し、立法化していくことでしょう。まさに、「茹で蛙」のように。
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by 130atm | 2013-01-21 14:26 | 独断偏見録 | Comments(0)

民草のつぶやき


by 一拙
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