生き急ぐ人々

ライブドアの堀江被告が保釈された。
3カ月ぶりに自宅に帰り、彼は「今思うと、生き急いでいた」と語ったそうだ。彼は以前に「諸行無常」と言ったこともあった。
彼が独房で読んだ本の中に、司馬遷の『史記』があったという。もちろん抜粋本である。『史記』は、ある面では生き急いだ人々の物語ということもできる。彼は何かをそこから学んだのではないかと想像される。

老子』に、「人の生、動いて死地に之くもの、十に三有り。夫れ何故ぞや。其の生を生とするの厚きを以てなり」というくだりがある。寿命長く生まれついているのに、下手に動き廻る結果、自ら死地に赴いて短命に終わる者が十人のうちに三人いる。それは一体何故であろうか。余りにも生命を満ち足らせようとし過ぎて、享楽耽溺の生活を送ったり、富貴・名声を追及することにあくせくしたりするからである、というのがこの通釈。
「生き急いだ」のはヒューザーの小島社長、総研の内河所長、そしてイーホームズの藤田社長もそうである。一見誠実そうに見えた藤田社長は、社内にあっては過酷なノルマを社員に課す強権的な経営者だったようだ。
その「生き急いだ」人々は、その期するところとはうらはらに、自らの会社を廃業に追い込んでしまったのである。

諸行無常」は仏教思想であるが、キリスト教思想の西洋にもこのことに気づいていた人がいる。モンテーニュは、栄耀栄華をきわめた人には「神が嫉妬する」のだと『エセー』に書いている。あるいは南方熊楠風に言えば、堀江は「邪視」の犠牲になったのだと見なすこともできる。

私は「野心」というものには縁のない性格で、出世やおカネのことに関してはまるで疎い人生であった。ただぼんやりと生きてきたと今更のように思う。半世紀も生きていると、世の中のことが少しは見えてくる。すると、権力を振り回す人や巨万の富を得て贅沢三昧に暮らす人々を見ても、少しも羨ましいと思わないようになった。どう見ても彼らは幸せそうに見えないからである。家人は「幸せと感じるものがあなたとはちがうのよ」と言うのだが、本質的なところで彼らは満足していないように見えてしかたがないのである。

少しは悟るところがあったかのような堀江被告を見て、私は『唐代伝奇』の「枕中記」を思い出した。堀江被告は廬生そのものである。
廬生は「吾は此れ苟も生くるのみ」と嘆息するのだが、栄枯盛衰の夢から醒めてみて、欲のない「生くるのみ」の人生がいかに幸せなものであるかを知るのである。

私はライブドアの株は買ったことがないから、事件については高見の見物をきめこんでいただけである。建前では違法性を認識していなかったと彼は主張するだろうが、本心はきっとそうではないだろうと思いたい。騙した株主に対してはしっかりと責任を果たしてもらいたいものだ。その結果すってんてんになったとしても、彼には再起の道もあるだろう。そのときには、廬生の夢を再現するようなことがなければいいがと思うのである。
Commented by sakae at 2006-04-30 17:56 x
中国の誰かが人が居る所には人が居らず、人が居らざる所には人が居る。と言った人がいたような。

人が集まるところには人として生きようとせず鬼畜のような生き方をし、人の集まらない辺鄙なところには人として満足な生き方をする人たちがいると言う意味だったと思います。

まさに今の日本でしょうかね。
でも出世欲は誰にでもあるし妬みとかも・・・。
Commented by 一拙 at 2006-04-30 22:20 x
中国の教訓話ばかり読んでいると、自分までが道学者のような言い方になってくるのが怖い。
その実、欲望と嫉妬にフタをして重石をのせている自分。
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by 130atm | 2006-04-30 09:51 | 世相ぶった斬り | Comments(2)

民草のつぶやき


by 一拙
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