カズオ・イシグロの世界


以前の話になる。
今年のお盆の墓参りに帰省したとき、道々にイヤというほど、前法務大臣のポスターが貼られていた。
悪名高い「テロ等準備罪」や「共謀罪」の審議中、野党質問に対し、まともな受け答えができず、認知症が疑われるほどしどろもどろの答弁を繰り返した前法務大臣である。
旦那寺から毎月送られてくる通信に、あの人を国会に送り出したのは私たちだったと、悔恨の情をにじませた住職の文章がのっていた。

この前法務大臣の発言を報道しつづけてきたTBSのジャーナリストが、衆議院選の選挙運動期間中にこの前大臣の選挙演説会をはるばる秋田まで取材に来て、インタビューを試みた。
前法務大臣は、「私の発言は、終始一貫しておった」と答えたのだった。
この前法務大臣は、二階幹事長や菅官房長官が地元入りして応援してくれたおかげだろうか、またしても当選してしまったのである。


憲法学者の長谷部恭男氏が、『世界』(12月号)に、「人としていかに生きるか カズオ・イシグロの世界」を寄稿している。
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作である『日の名残り』が、「第二次世界大戦後のイギリスの田園地帯にある邸宅を舞台にした作品で、そこで働く執事の回想を通して失われつつある伝統を描」いたと一般的に紹介されていることに対し、軽い驚きにおそわれたという。
文学にも造詣の深い氏は、その違和感から、憲法学者と文学の視点よりさらに高いところで、カズオ・イシグロの描こうとしたものをより深く読み解こうとしたのだろう。(私はもちろんカズオ・イシグロの作品は読んでいない)

主人公の執事、スティーヴンズの主人、ダーリントン卿は、対ナチ融和政策に加担したアマチュア政治家として、世の指弾を浴びた人物だった。この主人公は、外交を道楽とするつまらぬ主人に真摯に仕えることが宿命だったのである。しかし、その生き方でよかったのか、疑念にさいなまれている。

人がまず関心を持つのは、自分自身の人生であり、日々の暮らしである。国際関係はもとより、国家全体にかかわる国内政治の問題も、わざわざ知識を積み、情報を確認し、熟慮をへて「強い意見」を固めるべく、時間やコストをかけるほどのことではない。ここには、庶民としての偽りのないまごころが示されている。政治にかかわることは、それに強い関心を抱き、エネルギーを注ごうとする少数者に任せていれば足りる。
スティーヴンズにとっては、自分がこれと見定めた主人に誠心誠意仕えることこそ、彼の人生の核心であった。もともと、「民主国家」の一般市民の大多数は、政治にさしたる関心もなく、日々の暮らしにいそしんでいる。情報にうとく、熟慮も足りない大衆が政治にかかわれば、国の将来を決する争点にも情緒的な反応しかなし得ず、その時々の「風」に翻弄されて、いたずらに政治の混乱を招くだけである。それは「賢明なこととは言い難い」。(引用)

長谷部氏は最後に、「イシグロの作品をファンタジーとか、探偵小説とか、SF小説等といったカテゴリーに区分することに、ほとんど意味はない。問われているのはいつも、人としていかに生きるか、とりわけ権力にいかに向き合うか、という普遍的な問題である」と締めくくっている。

先の衆院選では、野党分裂の追い風もあって、あれだけ批判されてきた自民党が大勝した。長谷部氏のこの寄稿は、日本の一般大衆の政治意識をも見据え、それを間接的に示唆しながら書き進めたのではないかと、私には思われるのである。

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by 130atm | 2017-11-24 11:35 | 独断偏見録 | Comments(0)

民草のつぶやき


by 一拙
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