耄碌するということ
2019年 04月 13日
やや旧聞になったが、五輪担当相だった自民党の桜田義孝氏が、失言で大臣を辞任した。
顔から判断するのは失礼なことだが、この人をテレビで拝見するかぎり、悪い人には思えない。
私より若い人なのに、どう考えても、耄碌しているとしか考えられない。サイバーセキュリティ戦略副本部長なのに、パソコンも触ったことがないらしい。
以前にも、まともな答弁ができず、耄碌しているとしか思えない法務大臣がいた。
「耄碌」という言葉は、近頃はあまり使われなくなった。
一種の脳の老化現象だが、老人になれば、程度の差こそあれ、ほとんどの人がその症状を呈するようになる。認知症とちがって、本人も周囲も自覚が薄い。政治家であれば、気をつけないと失言につながってしまう。失言の多い政治家は、大体において、耄碌していると判断していいのではないだろうか。
政治家は特に、言葉の選択が命取りになる。政治家は、言葉がすべてである。実行できるかどうかは別として、政治家としての志は言葉に表れる。だから、言葉には最大の注意を払って発言しなくてはならない。
『論語』に、「白圭を三復す」という言葉がある。『詩経』からの引用だが、「白圭(美玉)の欠けたのは磨いて元通りに美しくできるが、人の言葉は一度過ちを言ってしまえば、後からとりかえしが出来ない」ということを言っている。
政治家が失言をすると、撤回するだの、取り消すだの、あるいは誤解を与えただのと言い訳をするが、一度口にしてしまったものは、絶対に消えない。謝罪をして、言われた方はそれを許しても、決して忘れることはない。言葉というものは、それほど重いものなのだ。だから、政治家に限らず自分自身も、自戒して、言葉は慎重に選ばなくてはならないと思う。