納豆騒動
2007年 01月 28日
子どものころはご飯に混ぜて食べていたが、今はご飯の上に乗せて食べている。ご飯に混ぜていたのは、きっと母がそうして食べるものと教えていたからなのだろう。
数年前に、自分で納豆をつくろうとしたことがある。大豆を煮て納豆を数粒混ぜ、100円ショップで買った容器に入れて電気アンカの上に置き、毛布で巻いて保温しておくという素人の作り方だ。
何回か作ってみたが、うまく納豆菌が大豆に回らない。臭いは漂ってくるのだが、納豆もどきになるだけで、いい色に仕上がらないのである。結局温度管理がうまくいかないということで、作るのはやめてしまった。
どうして自分で作ろうとしたのか。それは、作ってみたことがなかったからということに尽きると思う。豆腐は何度も作った。そのための大鍋も買った。しかし豆腐の型も今はどこかの奥にしまったままだ。
やや旧聞になるが、納豆騒動がマスコミを賑わした。
過去にも寒天ダイエットで寒天が店頭から消えたし、ほかにも店頭から消えた食品は数々あったように思う。こういうことは何も日本だけの特殊な現象ではないのかも知れないが、どこかで小泉人気とつながっているような気がする。
何も納豆を買いに走った人たちは小泉人気を支えていた人たちであるというつもりはない。野党を支持していても納豆を買いに走ったという人はいるだろう。
古くは石油ショックでトイレットペーパーが店頭から消えたということがあった。私のつれあいはそういう事態になっても軽挙妄動しない人で、その点は私に似ている。似たもの夫婦というのだろうか。
この騒ぎで一番被害を受けたのは納豆の製造業者で、注文の激減で在庫処分を余儀なくされ、気の毒なことであった。原油高で追い詰められたところにこの騒ぎで、ダブルパンチというか踏んだり蹴ったりというか、人生にこうしたことはままあることなのである。私の仕事上の経験から言えば、悪いことは一度に3つやって来る。立て続けに2つよくないことが起これば、ついでにも一つやって来るのである。納豆業者にはこの2つだけで終わって欲しいものだ。
これから先も、店頭から姿を消すものが出てくるだろう。その品を自分が買いに走ったとき、状況の異常さに気づくよりも、自分の異常さに気づくべきである。自分の何かがおかしくなっているという認識。テレビ局という他人を責めるより、そういう情報に踊ってしまう自分に気づいて欲しいものだと思う。