共同体意識
2008年 10月 16日
住んでいる人の庭に対する考え方も色々で、庭に雑草が生え放題のところもあれば、除草剤で雑草を枯れさせているところもある。芝生を一所懸命維持しているところもあれば、丹精してたくさんのバラを咲かせている庭もある。
ススキさえ生えている荒れ放題の庭にそこの住人が出てくることはないようだし、除草剤で草を枯れさせたところは、庭なんかどうでもいいという考えを持っているそうだ。ここに移って来る前に、水漏れで階下の住人に迷惑をかけたので、そういう事故のない1階に決めただけだという。庭を放っておいたら雑草だらけになり、草を刈るのも面倒なので、いっそのこと除草剤で枯れさせてしまおう、ということだったらしい。
ここの庭は専有ではないので、毎月使用料を払っている。使用規則もあるし、芝生をきれいに維持するのは大変なことだ。私のところは単身赴任中に雑草が生い茂り、戻ってから格闘したが、ついに庭から芝生がなくなった。
私はバラが好きでバラを始めたのではなかった。今でもバラに夢中になっているわけではなく、バラの健康維持には難儀している。バラを弱らせるミミズの駆除に苦心しているし、バラの病気も侮れないからだ。
それでもきれいに咲いたときには道を行く人にも見て欲しいと思うし、写真に撮って不特定多数の人にも見て欲しいと思う。きれいなものは独占せず、みんなにも愛でてもらいたいと思うのである。なぜそう思うのだろうか。
難しく考えるまでもなく、そこにはある種の共同体意識が働いているのではないかと私は思うのである。食料が手に入ったら共同体のみんなで分かち合い、辛いこと悲しいことがあればそれをみんなで共有する。そうすると辛さ悲しさも少しは薄れるのではないか。うれしいことがあればみんなで喜び合う。そうすることでうれしさが増幅するのではないか。それは、大昔に人間が社会生活を営むようになってからずっと大切に継承してきた文化というべきものであると思う。
数日前に、たまたま外に出たら、何か重そうな大きな箱を抱えて悪戦苦闘している女性を見かけた。身長ほどもある長いダンボール箱を運ぼうとしているのだが、それがテコでも動かない。
私はそこに行って、運びましょうと申し出た。聞けばそれはテレビを置く台で、50キロもあるという。それを近くの駐車場からマンションの自室に一人で運ぼうとしていたのであった。
普通でない状況に遭遇したとき、自分は何をすべきか、とっさに考える。危機的状況のもとでは特に、自分が何かの役に立ちそうであれば、何とかしてやろうと思う。「私と他者とは一体である」という形而上学的認識論をそこに持ち込むこともできるだろうが、ある種の共同体意識というものも、そこには働いているのではないだろうか。それは、広げて考えれば人間一般に及ぶだろうし、もっと広げて考えれば、生物一般や地球環境にも及ぶのではないだろうか。
秋のメルヘン・ケーニギンは、巨大輪になりました。