蝴蝶の夢

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カテゴリ:独断偏見録( 35 )


2017年 11月 24日

カズオ・イシグロの世界


以前の話になる。
今年のお盆の墓参りに帰省したとき、道々にイヤというほど、前法務大臣のポスターが貼られていた。
悪名高い「テロ等準備罪」や「共謀罪」の審議中、野党質問に対し、まともな受け答えができず、認知症が疑われるほどしどろもどろの答弁を繰り返した前法務大臣である。
旦那寺から毎月送られてくる通信に、あの人を国会に送り出したのは私たちだったと、悔恨の情をにじませた住職の文章がのっていた。

この前法務大臣の発言を報道しつづけてきたTBSのジャーナリストが、衆議院選の選挙運動期間中にこの前大臣の選挙演説会をはるばる秋田まで取材に来て、インタビューを試みた。
前法務大臣は、「私の発言は、終始一貫しておった」と答えたのだった。
この前法務大臣は、二階幹事長や菅官房長官が地元入りして応援してくれたおかげだろうか、またしても当選してしまったのである。


憲法学者の長谷部恭男氏が、『世界』(12月号)に、「人としていかに生きるか カズオ・イシグロの世界」を寄稿している。
ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作である『日の名残り』が、「第二次世界大戦後のイギリスの田園地帯にある邸宅を舞台にした作品で、そこで働く執事の回想を通して失われつつある伝統を描」いたと一般的に紹介されていることに対し、軽い驚きにおそわれたという。
文学にも造詣の深い氏は、その違和感から、憲法学者と文学の視点よりさらに高いところで、カズオ・イシグロの描こうとしたものをより深く読み解こうとしたのだろう。(私はもちろんカズオ・イシグロの作品は読んでいない)

主人公の執事、スティーヴンズの主人、ダーリントン卿は、対ナチ融和政策に加担したアマチュア政治家として、世の指弾を浴びた人物だった。この主人公は、外交を道楽とするつまらぬ主人に真摯に仕えることが宿命だったのである。しかし、その生き方でよかったのか、疑念にさいなまれている。

人がまず関心を持つのは、自分自身の人生であり、日々の暮らしである。国際関係はもとより、国家全体にかかわる国内政治の問題も、わざわざ知識を積み、情報を確認し、熟慮をへて「強い意見」を固めるべく、時間やコストをかけるほどのことではない。ここには、庶民としての偽りのないまごころが示されている。政治にかかわることは、それに強い関心を抱き、エネルギーを注ごうとする少数者に任せていれば足りる。
スティーヴンズにとっては、自分がこれと見定めた主人に誠心誠意仕えることこそ、彼の人生の核心であった。もともと、「民主国家」の一般市民の大多数は、政治にさしたる関心もなく、日々の暮らしにいそしんでいる。情報にうとく、熟慮も足りない大衆が政治にかかわれば、国の将来を決する争点にも情緒的な反応しかなし得ず、その時々の「風」に翻弄されて、いたずらに政治の混乱を招くだけである。それは「賢明なこととは言い難い」。(引用)

長谷部氏は最後に、「イシグロの作品をファンタジーとか、探偵小説とか、SF小説等といったカテゴリーに区分することに、ほとんど意味はない。問われているのはいつも、人としていかに生きるか、とりわけ権力にいかに向き合うか、という普遍的な問題である」と締めくくっている。

先の衆院選では、野党分裂の追い風もあって、あれだけ批判されてきた自民党が大勝した。長谷部氏のこの寄稿は、日本の一般大衆の政治意識をも見据え、それを間接的に示唆しながら書き進めたのではないかと、私には思われるのである。


by 130atm | 2017-11-24 11:35 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(0)
2017年 08月 17日

戦慄の記録 インパール


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15日のNHKスペシャル、「戦慄の記録 インパール」を見た。
NHKは1993年にも、「責任なき戦場 ~ビルマ・インパール~」を放送している。私はそれを見たし、それを新書にしたものも読んでいる。
「戦慄の記録」の内容は、「責任なき戦場」と本質的に変わるものではない。作戦に従軍した生き残りの新たな証言と現地の取材、そしてイギリスの新資料を提示した分だけ長くなったということだろう。

私が戦史で最も興味を持ったのは、「ノモンハン事件」、「ガダルカナル作戦」、そして「インパール作戦」だった。この3つの作戦に、旧日本軍の失敗の本質が凝縮されていると思ったからである。それはおそらく、旧日本軍ばかりでなく、日本人のDNAに組み込まれていると思われる、今なお消えていない宿痾が見て取れるからだ。

それはつまり、見たいものだけを見る、聞きたいことだけを聞く、そうして異論を唱える者を排除するという悪弊と、「空気」というものに支配されやすい国民性に、ほぼ帰結させることができそうだ。それは、日本はいまだに「ムラ」社会であるからだと洞察した人もいたし、稲作文化にその起源を見る人もいる。昨今いわれるようになった「空気が読めない」という言葉も、その文化をひきずっているということだろうと思う。

その場の「空気」を読むことは、必ずしも悪いということではない。場をなごませ、場を盛り上げることもあるし、結束を強めるために必要な場合もある。しかし、私が経験してきた、会社組織の中で「空気」を読むということが、いかにマイナスの結果をもたらしたことか。それを思い出すたびに、悔恨と慚愧の念がこみ上げてくるのである。


by 130atm | 2017-08-17 09:11 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(2)
2017年 03月 19日

福島原発事故と『大衆の反逆』


為すべきことを為さなかったために、重大事故を発生させてしまう。福島原発の事故のことである。
不作為の結果責任は我々の日常でもよく経験することで、私の会社員時代にも何度もあって、その都度後悔と反省を強いられたものであった。

原子炉の安全部門を歩んできた人で、東電の原子力発電の最高責任者である武藤栄副社長は、土木調査部門から、想定される15.7メートルの津波から原発を守るために、10メートル盤の敷地の上にさらに10メートルの防潮堤を設置する必要があると伝えられていた。実際の津波は15.5メートル。東電としても、この防潮堤の設置を進めることを決定していたにもかかわらず、武藤栄氏は方針を変更し、何年も先延ばしにしたのである。この方針転換を、副社長の武黒氏と会長の勝俣氏も追認してしまった。その結果、あの大地震と巨大津波で、原子炉の爆発、そしてメルトダウンという苛酷事故が発生したのである。

なぜ先延ばしにしたのか。それは建設コストを考えたからだろうと言われている。カネのかかることは先延ばしにする。これは企業の論理なのかもしれない。しかし、それだけなのだろうか。
副社長が津波対策を軽視した心理的背景を、日本政治史が専門の三谷太一郎氏が「主体性を欠いた歴史認識の帰結は何か」(『世界』2015.10)という論文で示唆している。

「専門家支配の何が問題なのか。かつて、オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』(1930)において、「一つのことに知識があり、他のすべてのことには基本的に無知である人間」、すなわち大衆化した専門家の野蛮性を厳しく排撃した。専門家が自己限定の自覚を欠いたとき、専門家支配は暴走する。私たちがつい先ごろ目の当たりにした東日本大震災における東京電力福島第一原発の事故は、まさに専門家支配の暴走がもたらした破綻の極致であったのではなかろうか。歴史を遡れば、1930年代から敗戦までのいわゆる軍部支配は、軍事の専門家による専門家支配の一形態であったといえる」

オルテガの『大衆の反逆』には、こう書かれている。
彼(専門家)は表面的な判断から、自分自身を「ものを知っている人間」だと考えるだろう。事実また、彼が持っている知識の断片は、彼が持たない他の断片と一緒になれば真の知識を構成するものである。これが、二十世紀の初頭に極端に発達した専門家の精神構造である。専門家は自分が研究している宇宙の微々たる部分については実によく「知っている」が、それ以外のことについてはまったく何も知らないのである。・・・・・
われわれは彼を知者・無知者とでも呼ばねばならないだろう。これはきわめて重要なことである。というのは、そうした人間は自分が知らないあらゆる問題についても、無知者として振舞わずに、自分の専門分野で知者である人がもつ、あの傲慢さで臨むことを意味しているからである。・・・・・
他の分野における専門家の存在を認めないのだ。文明が彼を専門家に仕立てたとき、彼を自分の限界内に閉じこもり、そこで満足しきる人間にしてしまったのだ。しかし彼の心のうちにあるこの自己満足と、自分は有能だという感情は、彼をして専門外の分野をも支配したいという気持に導くだろう。・・・・・
「他人の言葉に耳を傾けない」、より高度の審判に従わないという性向は、ほかでもなく、部分的資質を持ったこれらの人びとにおいてその極に達しているのだ。彼らは今日の大衆支配を象徴すると共に、その大部分を構成している。そして、彼らの野蛮性こそがヨーロッパの堕落の最も直接的な原因になっているのである。・・・・・

東京電力福島第一原発事故で群馬県内に避難した住民ら45世帯137人が、国と東電に総額約15億円の損害賠償を求めた手段訴訟の判決が17日、前橋地裁であった。原道子裁判長は、国と東電はともに津波を予見できたと指摘。事故は防げたのに対策を怠ったと認め、62人に計3855万円を支払うよう命じた。「経済的合理性を安全性に優先させ、特に非難に値する」と述べた。(2017.3.18付朝日新聞)
もちろん、裁判にあっては、その経済的合理性を優先させた背景の心理状態にまで踏みこむことはない。徹頭徹尾、事実関係だけで判決を下すのである。

震災が落ちついてから、私は従兄弟たちに会うために東京へ行ったことがある。板橋区の高級マンションに住む従兄弟が管理組合の理事長をしていたとき、あの大震災が発生し、福島原発の事故があった。東電の某副社長もそのマンションに住んでいたのだが、その副社長の郵便受けにタバコの吸い殻が投げこまれたことがあったという。
東電の会長も社長も副社長も、あの事故以来白い眼で見られ、有形無形の嫌がらせを受けていたであろうことはこのことからも想像できるだろう。

by 130atm | 2017-03-19 14:03 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(0)
2014年 02月 26日

個人的権威への絶対随順

公共放送の会長が発言した「政府が右ということを左と言うわけにはいかない」とという言葉は、商社マン時代の彼の人生そのものだったようです。彼は、上司から「右向け右」と命じられたら忠実に一晩中でも右を向いているような男だったといわれています。彼にとって上司は絶対であって、自分の部下にも服従を求めたそうです。

中村元博士は『日本人の思惟方法』の中で、日本が仏教を受容していく過程で、インドやシナと著しく違っている特徴はいくつかあるが、その中で際立っているもののひとつとして、仏教の普遍的な理法を閑却して、特定の個人の権威を強調したということにあるといいます。そのために、聖徳太子などは経典に書かれてあることをねじ曲げて解釈(『法華経』では「つねに坐禅を行え」と勧めているのに、「つねに坐禅を行うような人に近づいてはならぬ」という意味に改めていることなど)しましたし、道元をはじめとして、漢訳仏典に無理な解釈を施した(たとえば、「有時」は単に「あるとき」という意味だったのに、「うじ」と読んで、ハイデガーのように「存在と時間」と哲学的に解釈した例)りしました。また日蓮が『法華経』の中の上行菩薩の再誕であると自覚し、道元が「師承の尊重」ということを立言し、親鸞が法然に絶対的帰投の態度をとったことなどが例としてあげられています。

『弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまふすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟。』(『歎異抄』)

ここにある三段論法には大前提がかくされています。その大前提は、「師匠に対して忠実であった弟子の言は、師匠の言と同様に真実である」ということです。これは大いに問題とすべき命題であるにもかかわらず、親鸞を中心とする日本人たちは、これを当然の道理として考え、あえてあらわに表明する必要もないこととして伏せてしまっているのである、というのです。
ここに支配している根本動機は、個人的権威に対する絶対随順である。この連鎖式は「上官の命令はすなわち天皇の命令である」という日本近代の思惟方法と本質的には異なっていない。そう中村博士は断言しています。

くだんの会長は、自分の思惟傾向が日本人特有のものであるなどとは知りもしないでしょう。それは翻って、私たち自身のものの考え方も、日本人特有の思惟方法にしばられているのではないかということに思い当たります。
「放送法」は、いわば普遍的理法というべきもので、それを閑却して、政府(あるいは首相)という権威の言うままに随順し、あるいは政府の意向を忖度してはばからない態度は、われわれ日本人のある種の象徴であるということになるのではないでしょうか。

by 130atm | 2014-02-26 09:12 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(0)
2014年 02月 01日

宿痾

「(特定秘密保護法は)通っちゃったんで、言ってもしょうがないのではないかと思う。」
これは、NHKの会長が、就任会見で発言したとされる言葉です。

これは、決まってしまったものは、あとでとやかく言ってもはじまらないことである、というふうに解釈していいと思います。
特定秘密保護法は、今は法律として決まってしまったものではあるけれど、この法律を廃止することだって、できることなのです。国民にとって不都合な法律は、決まったあとでも、声を上げて廃止を叫べば、それは可能だということは、普通に考えたら分かることでしょう。

昭和のはじめ、軍部が力を増して、政治のコントロールが効かなくなったとき、統帥権の独立を錦の御旗にして、軍部が暴走をはじめました。
関東軍が軍中枢の承認を得ることなく満州事変を起こして中国東北部を占領したとき、本来ならば責任者を軍法会議にかけて処罰しなければならないのに、「やってしまったことは仕方がない」と、追認してしまったのでした。
かくて、「不拡大方針」を打ち出している軍中央の承認を受けることなく、謀略を演出して中国の各地に侵略を進めていき、泥沼状態に陥っていったのでした。

なぜ軍部が「追認」していかなければならなかったか。東京裁判を見て、丸山真男は『軍国主義者の精神形態』で分析しています。
「一つは、既成事実への屈服であり他の一つは権限への逃避である。・・・・既成事実への屈服とは何か。既に現実が形成せられたということがそれを結局において是認する根拠となることである。・・・・このような軍の縦の指導性の喪失が逆に横の関係においては自己の主張を貫く手段として利用された。陸軍大臣が閣議や御前会議などである処置に反対し、あるいはある処置の採用を迫る根拠はいつもきまって「それでは部内がおさまらいから」とか「それでは軍の統制を保障しえないから」ということであった。」
これを丸山は軍内部の「下克上」的傾向にあるとし、それを「抑圧委譲の楯の反面であり、抑圧委譲の病理現象である」と分析します。

「通ってしまったものは言ってもしょうがない」と考えるNHK会長の思考回路は、旧日本軍の宿痾ともいうべき「追認」の思考回路とどうちがっているのでしょうか。私には少しもちがっていないように思われます。決まってしまったものは仕方がないと考える。これは日本人に宿痾のごとく染みついた思考回路なのでしょうか。

一度口に出してしまったことは、取り消すことはできません。個人的見解だからという言い訳も通りません。社会的地位にある人というのは、公人も個人もないのです。国会に参考人招致された会長は、「私の個人的な意見、見解を放送に反映させることはない」とは言っているものの、過去のNHKの会長が人事や番組制作にどう影響力を行使したのか、「NHK会長 その政治的で不可解なるもの」(永田浩三  『世界』2014.2)を読むかぎりでは、それはかなり非現実的だろうと、思わずにはいられません。

by 130atm | 2014-02-01 10:52 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(0)
2013年 12月 01日

端緒において抵抗せよ

私のブログにはいつも脳天気なことを書いていますが、私は「特定秘密保護法案」には強く反対するものであります。この法案は、あの悪名高い「治安維持法」に発展する法律となるでしょう。

戦前戦中の日本が、いかに暗黒の時代であったか。正しい本当の情報が隠され、政府に不都合な言動をしたというだけで特高に連行され、拷問を受けるような時代が再来しようとしています。

知らないということ、考えないということ。これは大いなる罪であります。どちらも「凡庸な悪」といわれるものです。気がついてからではもう遅いのです。
ファシズムの最初の兆候があらわれたときに、なぜ自分たちは抵抗しなかったのか。これはドイツ国民の大きな悔恨でした。「端緒において抵抗せよ」。これはナチスの支配を許してしまったドイツの、大きな教訓だったのです。

by 130atm | 2013-12-01 21:30 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(0)
2013年 01月 21日

蛙の比喩 二題

「茹で蛙」

私がはじめて「茹で蛙」の喩え話に接したのは、もう20年近く前、債権保全のセミナーに参加したときでした。
経営が傾いている取引先の信用状態を観察しているとき、少しずつ悪化してきているのに、わずかな変化だからといって楽観していると、ある日突然倒産してしまうことがある。その進行が緩やかなので、つい油断してしまうということの喩えに、この話が出されたのでした。
会社勤め時代の私はビジネス書を読むのが大嫌いでしたから、こんなことも知りませんでした。リタイアしてからドラッカーなどに興味をもったのですから、皮肉なものです。

このような事態の緩やかな変化を「茹でガエル症候群」、あるいは「茹でガエルの法則」といっているようです。
「2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。すると、前者は直ちに飛び跳ね脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できずに死亡する」
これは債権保全ばかりでなく、広くビジネス環境の変化に即応することの重要性をいっていて、ビジネス書やセミナーでよく取り上げられる喩え話です。しかしこれは作り話で、実際に水からゆっくり茹でてみれば、熱くなる前にカエルは逃げ出してしまうそうです。

P・F・ドラッカーは、すぐれた経営者は僅かな兆候の意味するところを見逃さないと言っていますし、喩え話の好きな『淮南子』は、孔子、子産を「近きを以て遠きを諭(さと)り、小を以て大を知るなり」といい、「聖人は外に従(よ)りて内を知り、見(あらわ)れたるを以て隠れたるを知る」と、同じことをいっています。

事はビジネス環境にかぎりません。
福島第一原発の始末に負えない惨状をわれわれが熱湯と感じて飛出すか、それとも、なにやら水が少し温かくなってきたがまだ大丈夫、エネルギーを使い放題の心地よい日頃の生活から抜け出すのはゴメンと、汚染水のなかで泳ぎ続けるのかという記事は、あるブログで見つけたことでした。
熱湯に放り込まれたと考える人は、原発の再稼働に反対する人です。まだ温い水だから、そんなに大騒ぎすることはないと考える人は、原発をまだ維持していこうという人をいうのでしょう。
「茹でガエルの法則」からすれば、日本の原発行政の行く末はどうなるでしょうか。気がついたときにはもう手遅れ、あるいは破滅的な現実に直面してしまうことになります。小を見て大を見ず、外を見て内を見ないということの結果は明白です。
原発事故にかぎらず、この喩え話を覚えておけば、日々のニュースや身のまわりのことでも、小さなことから想像して、大事に至る前に何事かを為すことができそうな気がしてきます。「茹でガエル」になる前に働かせなくてはならないのは、やはり「想像力」だということではないでしょうか。

「三匹の蛙」

「三匹の蛙」の話に接したのは、加藤周一の『夕陽妄語』でした。
ヒトラー政府の下で、いわゆる「ウラニウム組」に参加した物理学者たちは原子炉をつくる研究にたずさわっていました。そのためにドイツ降伏後に英国に軟禁されたカルル・フリードリッヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは戦後、核兵器廃すべし、それができなければ、戦争を廃すべしと、科学者の責任に言及したのでした。
その彼が、「あなたは悲観論者か、それとも楽観論者か」という問いに、三匹の蛙の比喩を以て答えたのです。
「三匹の蛙が牛乳の容器の中に落ちた。悲観主義の蛙は、何をしてもどうせだめだからと考えて、何もせずに溺れ死んだ。楽観主義の蛙は、何もしなくても結局うまくゆくだろうと考えて、何もせずに溺れ死んだ。現実主義の蛙は、蛙にできることはもがくことだけだと考え、もがいているうちに、足下にバターができたので、バターをよじ登り、一跳びして容器の外へ逃げた。」

「三匹の蛙」の話はヴァイツゼッカーの独創ではなく、これは「イソップ物語」にあるというのは、後で知ったことでした。
この喩え話も、ビジネス環境をどう捉え、どう乗り切っていくかということの、格好の喩え話にされているようです。しかし、このこともビジネスに限る話ではありません。蛙にできることがもがくことだけならば、人間にできることは何なのでしょうか。


蛙の喩え話から想い出されたのは、ナチスが実権を握ってドイツを全体主義国家にした過程のことでした。
ナチスはドイツの政治体制の外側から発生しましたが、最初から熱狂的にドイツ国民に支持されたのではありませんでした。ナチスが政権を掌握してから、その変革は少しずつ着手されていったのです。
最初は社会主義者が狙われ、自由主義者が投獄されるようになり、キリスト教会に及びました。早くから気づいた人は警告を発していましたが、「脅かし屋」といわれ、相手にされませんでした。そのうち誰も自由にものを言うことができなくなり、気がついたときにはもう手遅れで、あの恐ろしいナチス・ドイツになっていたのです。
戦後のドイツは、政治家や知識人を含め、その過去への深刻な総括から出発しました。「一億総懺悔」と言って戦争責任の所在を曖昧にし、戦争責任者が総理大臣になるような国とちがって、その戦争責任の追及は徹底をきわめました。そういう過去の歴史を重い教訓にしていたドイツは、福島の原発事故を受けて、ただちに原発を廃止する決定をしたのです。

政権を奪還した自民党の安部総理は、自民党の中でも極右とされる人物です。原発を推進していくばかりでなく、集団的自衛権の行使をめざし、海外派兵ができるように平和憲法を改憲しようとしています。尖閣諸島問題やアルジェリアの人質事件は、彼にとっては「奇貨」なのです。
この夏の参議院選挙のあとから、あまり騒がれないように、少しずつ、自分の考える国家に近づけていくための政策を立案し、立法化していくことでしょう。まさに、「茹で蛙」のように。

by 130atm | 2013-01-21 14:26 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(0)
2012年 12月 08日

へそ曲がりと偏屈の対話 中村勘三郎を悼む

臍曲親父: 歌舞伎の中村勘三郎が亡くなりました。私は彼の歌舞伎を直接観たことはありませんが、歌舞伎の枠を超えて挑戦している姿勢を高く評価していただけに、非常に残念でなりません。
偏屈老人: その昔、彼が中村勘九郎を襲名して初舞台を踏んだときの挨拶をテレビで観たが、先代の勘三郎の横で挨拶する姿が実にほほえましく、可愛かったのを覚えておる。先代が歳をとってからもうけた息子だったから、悦びも大きかったのだ。それがどうだ。まだ還暦も迎えないうちに急逝してしまった。
臍曲親父: 人間の命のはかなさを感じます。私はたまたまこの歳まで生きながらえてきましたが、私はこれまでいたずらに馬齢を重ねてきたという偶然にめぐまれ、彼ははからずも偶然にはかなくなった、ということなのでしょうか。
偏屈老人: 仏教では、人にはその人の一生涯の食分(じきぶん)があり、命分(みょうぶん)があるといわれている。これは、人間の努力や心がけによってもちがってくるが、それだけではどうにもならないところがある。限度というものがあるというのだ。18代目の命分は、今で尽きてしまったということなのだ。頑張りすぎた、ということなのかもしれぬ。
臍曲親父: 食分とは、どういうことなのでしょう。
偏屈老人: 生涯に食べる食料の量の限度をいうのだ。仏道修行をするうえにおいて、食べもののことを心配してはいけないという。食分はきまっておるから、なければなくとも、何とかなるものだというのだ。美食に明け暮れていると命を縮めるというのは、このあたりの消息をいったものか。
昔一人の僧があって、死んで冥界に行った。閻魔大王いわく、此人命分未だ尽きず、(娑婆に)帰すべし、と。冥官いわく、命分ありといえども、食分すでに尽きぬ、と。大王のいわく、荷葉(蓮の葉)を食せしむべし、と。その僧が蘇ってのち、人間の食べものを食べることができず、蓮の葉だけを食べて残りの寿命を保ったというのだ。
人間は自由な存在ではあるが、また有限な存在でもある。文明が発達して人間が傲慢になってくると、人間の有限性が忘れられて、無限の欲望を追求するようになった。ギリシャでもインドでも、中国であっても、昔はその自由と有限の意識のバランスがとれておったが、どこでまちがってしまったのだろうか。
臍曲親父: 人間存在の有限性が強く意識されたのは、あの東日本大震災があってからのことでした。欲望を無制限に発展させることが価値あることとされてきたのが、大きな壁にぶち当たったのでした。欲望の無制限な発展と人間の幸福は別物であるということに気づいた人は、幸いでした。
偏屈老人: 思い出したが、その昔、大阪の松竹座で、先代勘三郎の歌舞伎を観たことがあった。たしか「身替座禅」という演目だった。最前列に近い席だったので、先代の顔を間近で見ることができたのだ。それは、京都のお殿様が、恐い奥方をだまして愛人に会いにいくのだが、それがばれてしまうという話だ。これは元は狂言だったのだが、それを歌舞伎にしたのだ。勘三郎演ずるお殿様は愛人から会いたいという手紙を貰ったのだが、読み終わって会おうと決断したその時のニカッとした、何ともいえないスケベ顔を、未だに覚えている。そのとき、実にこれぞ名優と、感じ入ったものだ。18代目も、もう少し歳をとってこれを演じたら、さぞかし先代に負けない顔をしてみせてくれたであろう。残念でならぬ。

by 130atm | 2012-12-08 16:00 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(0)
2012年 11月 09日

へそ曲がりと偏屈の対話 尖閣諸島について

臍曲親父: 米国の大統領選は、オバマの勝利になりました。ロムニーのほうが日本の経済にとってはいいという人もいましたが、どうなのでしょう。
偏屈老人: 気に入らないのは、日本の大衆報道機関が、これからも米国が日本をちゃんと向いてくれるのかどうか、こればかり気にしていることだ。政治家ばかりでなく、大衆報道機関までも奴隷根性が丸出しだ。ご主人様のご機嫌ばかり気にしておる。政治家も二言目には「日米同盟の強化」を口にする。竹島だ、尖閣だと大騒ぎをして、ひたすら米国の軍事力をあてにしている。米国は尖閣も日米安保条約の適用範囲内だと日本には言っているが、中国に対しては、何があっても米国が軍事力を行使することはないと言ったそうじゃないか。これを二枚舌というんだ。しかしこれが外交というものなのだ。日本の経済にとってどちらがいいかなんてのは、無用な議論なのだ。日本の都合で大統領が決まるわけじゃない。
臍曲親父: 尖閣といえば、歴史を詳細にたどってみると、どうも日本のほうが不利な形勢になってきました。世界中の国境線は、戦争によって奪ったり奪われたりして決まったものですが、それは何も正当な理由があって奪ったものではなく、強欲で奪ったものばかりです。しかし、昔から我が国の領土だったという中国の主張が通るのであれば、世界中の国境線が書き換えられなければならなくなる。そうすれば、日本だってロシアに北方四島を返還せよという主張が力を得ることになります。中国の主張が正しいとなれば、力ずくで奪ったチベットやウイグルについてはどう釈明するのでしょうか。自治区とは言っていますが、ちっとも自治じゃない。そこの矛盾を中国の指導層は分かっているのでしょうか。
偏屈老人: 中国の古典に、『戦国策』というのがある。春秋戦国時代に群雄割拠していた国がどうやって領土を広げようとしたか、この漢籍にはその権謀術数のノウハウが満載だ。舌先三寸で国を動かし、外交を取り仕切った説客のような人間が、今は中国にも日本にもいないではないか。威勢ばかりの人間や、頑固一徹な人間ばかりでは、国の行く末を誤るぞ。
臍曲親父: 尖閣で譲歩すれば、中国は必ず、次は沖縄をよこせと言ってくるという人がいます。琉球王国はもともと独立した国で、薩摩藩が琉球に侵攻してからは薩摩藩の強い影響下にあったわけですが、それでも清に朝貢し、清の元号を使い、清の属国としての儀礼を行っていました。だから尖閣諸島を含めて、琉球は中国の属国であったと主張しているわけです。その後、日清戦争で日本が勝利し、中国に台湾を割譲させたので、自然ななりゆきで琉球諸島も日本に属することになったのです。
偏屈老人: 国境争いに正義というものは通用しない。だから韓国も中国も、国際司法裁判所に持ち込もうとしないのだ。春秋戦国時代にも三国志の時代にも、敵国に攻め入るときには、無理矢理大義名分をでっち上げて、正義はわが方にあると主張してから攻め入っていたが、今はもうそんな時代ではないのだ。どちらが正しいかはっきりさせようと主張するのは、青くさい書生の論理である。道元禅師も言っておられるではないか。相手をもいい負かさず、自分の方の間違いだとしてもしまわずに、結着をつけずそのままにして、やめてしまうのがよいのである、と。
臍曲親父: 外交においては、どちらが正しいかということではなく、お互いに妥協しなければ結着がつかないということになるのでしょうか。そうであれば、国有化という措置を見直し、過去に日中双方で合意した「棚上げ」の状態に戻すというのが、いちばんの方策になることになりますね。
偏屈老人: それにしても、なぜ日本の民間人が尖閣諸島を個人で所有していたのか。
臍曲親父: それは、明治時代の沖縄の実業家が日本政府から無償貸与され、開拓し、所有してきたからだそうです。それが別の人に譲渡されたのが、今の所有者だというのです。
偏屈老人: 尖閣諸島に、開拓するような土地はないではないか。無償でも、貸与されたというからには、所有権は国にあるはずだ。どうして勝手に譲渡したのか。それをどういう論理で国が買い取るというのだ。矛盾している。日本国政府から貸与されたものを別の人に譲渡し、譲渡された人が20億円で国に売るというのは、これはいかさま師のすることではないのか。
臍曲親父: 尖閣諸島と琉球王国は、昔から一体のものなのです。まったく、同情すべきは琉球王国そのものです。国が小さいばっかりに、中国と日本双方の機嫌をそこねないように振る舞うのを余儀なくされ、あのアジア太平洋戦争では悲惨な目にあわされて、今では米国の軍事基地にされてしまっている。日米地位協定などは、あれは日本が米国の植民地であることを明文化したようなものです。何が起こっても宗主国には逆らうなという協定なのです。この地位協定が改定されないかぎり、米兵による事件はこれからもなくなることはないのです。
偏屈老人: 外国の駐留軍にこれだけ貢いでいるのは日本だけだ。ほかの国はともかく、これだけ基地の費用を負担しているのだから、地位協定を変えないことには、いつまでも奴隷根性は治らんぞ。米国は二言目には相応の分担を求めてくる。これはやくざと一緒で、もっとめかじめ料をくれないと、ちゃんと守ってやらないぞと、恫喝しているのだ。尖閣問題は、米国にとって、もっとめかじめ料を上げてもらうための好材料なのだ。
臍曲親父: 少し話は変わりますが、尖閣問題で発生した中国の暴動は、あれは私に魯迅の『阿Q正伝』を想起させました。あの暴徒たちは、阿Qそのもののように私には見えたのです。あの文化大革命のときの紅衛兵たちも、まるで阿Qのようでした。魯迅は、あの時代もそうであり、将来もそうであることを予言していたかのようです。あれは単なる民度の問題なのでしょうか。それとも、中国人に深く内在する宿痾のようなものなのでしょうか。
偏屈老人: 中国ばかりでなく、阿Qは日本にもたくさんいる。『阿Q正伝』が発表されたとき、中国の知識人は、ひょっとしたら自分も阿Qなのではないかと、深刻に自省したと聞いている。以前には学校の教科書に『阿Q正伝』を載せていたが、今ではもう載っていないそうだ。中国も反日教育一辺倒ではないだろうが、ものごとをどう捉え、どう評価し、自分の考えは正しいのか、そうでないのか、そこをよく検証するという教育がなされているのかどうか、そこが問題なのだ。これは日本の教育も同様である。「阿Q」的なるものは、民度でも宿痾でもない。貧困と教育から来る問題なのだ。それが克服できた日には、自分の意識の中の「阿Q」がいなくなる日なのだ。煽動者に振り回されてはならぬ。
臍曲親父: 話し出すときりがありません。場所を替えて、どうですか、いっぱいやりませんか。
偏屈老人: しばらく酒からは遠ざかっておった。酒を飲めば、もっと物事が見えてくるかも知れんな。

by 130atm | 2012-11-09 17:03 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(2)
2012年 10月 01日

原発と想像力

東日本大震災によって引き起こされた福島原発事故の意味を考えてみれば、核物質が人間の手に負えるものでないこと、そして、事故が発生したときの悲劇は途方もない範囲に広がるということに、当然のことながら思いが及ぶことになります。
何ものにも縛られていない想像力豊かな人々は、素直な思考回路の導き出すその結論に、疑いの無い確信を抱くことになります。

ところが、ある種の人々にとっては、その素直な想像力が何ものかによって阻害され、思考が別の回路を通って、まったくちがった結論にたどり着くことがあるようです。
原発を止めて電気が足りなくなると、「国民生活が守られない」、あるいは「経済が停滞する」、「国際競争力が失われる」という結論を導き出します。だから、「原発を廃止してはならない」のです。代替エネルギーが普及して原発がなくても電気が不足しないようになるには、まだ相当の時間とコストがかかる。だから、脱原発には反対の立場をとる。
そう主張する人々は、あの原発事故の恐ろしさをどう考えているのでしょうか。荒廃してしまった大地。生活の場を奪われて避難している人々。そして、将来発生してくるであろう放射性物質が原因となる病気。そういった悲劇には、しっかりと目を閉じて考えないようにしているふうに見えます。

想像力を阻害しているものは、何でしょうか。それは、権益以外の何ものでもないと私は考えます。東芝がウェスチングハウスを買収。日立とGEが原子力分野での合弁会社を設立し、さらに三菱重工が仏アレバと中型原子炉の共同開発を目指す合弁会社を設立して、日本が世界の原子力産業の中核主体になってしまっている現実があり、日本の産業協力なしには米国の原子力産業は動かないという「日米原子力共同体」という構造ができている。そのことの自覚を欠いた原子力に関する議論は空虚であると寺島実郎氏は断言します。「米国の核の傘に守られながら、しかも日米原子力共同体に身を置きながら、日本は『脱原発』を選択できると考えるのか」という米国のエネルギー専門家の質問(これは恫喝と同義です―一拙注)に、真剣に答えなければならないと言うのです。(『世界』2012.6)
原発で働く人々にとって脱原発は職を失うことです。地域経済が原発に依存しているかぎり、原発によって生活が成り立っている人々が存在するかぎり、彼らにとって原発存続が正しい主張であることは、想像力をめぐらすまでもなく自明なことです。しかし、ここにまず「思考停止」があるのです。変えることのできない構造ができあがっているから脱原発もあり得ないという考えも、「思考停止」意外の何ものでもありません。何よりも「命の重み」を第一に考える。このことはすべてのことに優先すると私は考えます。

企業・財界の利益を代弁する経団連などの団体は、臆面もなく「脱原発反対」を主張しています。その表情を見ていると、原発事故の恐ろしさを認識していないかのようです。そんな事故などあったんかいな、という顔つきをしています。
事故そのものより、悲劇的な人生を強制された人々に思いを致すことより、そして放射性物質による膨大な被害より、抱える企業の権益を保護し、増大させることのほうが彼らにとっては大事なのです。それを最優先で考えれば、原発事故による悲劇性など、考慮の対象にはならないのです。天下国家の将来を見通すという大局的な想像力は、ここでも遮断されています。それはむしろ組織の宿命というより、その組織のトップに立っている個人の資質の問題だという意見もあります。ものは言いようで、将来的には原発を無くしたほうがいいと思うけれど、今はとりあえず再稼働してもらわなくては日本の企業が立ちゆかないといった発言がなされたということは、私は聞いたことがありません。「推進は個人、責任は組織というのをやめて、責任も個人でとれ」と言うのは三橋貴明氏の主張ですが、こうした旧日本軍的な無責任体系(丸山真男)が現実の日本にまだ存在しているというのは、驚くべきことです。

組織を構成している人間というものは、その組織の目指している価値観に拘束され、想像力が制限されます。人間とはしょせんそうしたものでしょう。しかしそうした人間ばかりでできている組織というものは、やがて活力を失い、衰退し、そして崩壊します。組織の中でその組織の持つ価値観に疑問を抱き、反対する人間がいてこそ、その組織が存続し、発展していくエネルギーを持つことができるのではないでしょうか。反対する力とは、まさに「想像力」のことなのです。加藤周一は大江健三郎との対話で、「反対する力は何かというと、やはり想像力です」(『加藤周一対話集5』)と言っています。想像力を働かせることのない人は、反対する力を持たないのです。
想像力はまた、詩人の心と言ってもいいと思います。詩人はときに、未来を見通し、未来を予言し、隠れている真実を見出す力を持っているものです。私は詩人の心などというものは恥ずかしながら持ち合わせていませんが、そういう力を持っているという人を判別することはできるつもりです。

「今の生活レベルを落としたくない」から原発は維持すべきであるというのは、時折聞く言葉です。ふんだんに電気をつかって、夢のような生活を送る。この生活を失いたくない、というのでしょうか。原発を止めよという声に、「江戸時代の生活に戻ってもいいのか」と恫喝した人がおりました。私には電気のない生活など考えられないのですが、今はどう転んでも江戸時代の生活に戻ることはありません。電気やガス、水道が使えるという今の生活は、私が何度も書いたように、夢のような生活そのものです。その生活がやはり夢であったことは、あの大震災のときに思い知らされたことでした。その時の江戸時代に近いような生活は、ほんの数日で終わりを告げました。ガスの復旧には1ヶ月近くかかりましたが、電気もガスも、無ければ無いで、何とか生活はできることも分かりました。大事なのは、あたりまえのように送っている今の生活は、実は夢のような生活であることを、ふだん想像できているかということなのです。

過去に、小さな原発事故が頻発しておりました。報告されていない事故はその何倍もあったはずです。再発防止策をその都度立てておきながら、また同じ事故を起こしていました。小さな事故がいつまでも無くならないので、そのうち大事故が起こるのではないかという予感が私にはありました。それはハインリッヒの法則がそう言っているからです。
あの大事故が起きたとき、事故現場に何とか電源車は手配できたものの、ケーブルの長さが足りないという事態になりました。菅直人が居並ぶ専門家にどうしたらいいかと尋ねても、だれも菅に目を合わせず、黙っていたというのです。最悪の事態を想像したことがない専門家というものは、かくも無力な存在であることがここでも証明されました。

情況を判断し、適切な行動がとれるかどうかは、想像力の有る無しに関わっています。知的推理とは別次元にあるその「想像力」というのは、ふだん行使していないと、大事なときには働かない性質のものなのです。日常的な小さな事柄でも想像力を働かせて適切な行動をとるという習慣は、今から心がけても遅くはありません。

by 130atm | 2012-10-01 22:14 | 独断偏見録 | Trackback | Comments(4)